page top
top page > blog > こどもの国と建築家の夢

blog

2021.11.28

こどもの国と建築家の夢

先日、遊びに行った「こどもの国」についてBlogに書きかましたが、

 

その後、開園当時の建築に興味が湧き色々と調べてみました。

 

「こどもの国」Blogについてはこちら

 ⇩

https://iso-aa.co.jp/blog/%e3%81%93%e3%81%a9%e3%82%82%e3%81%ae%e5%9b%bd/

 

 

と言うのも開園当時の建物の設計者はマスタープランを作成した浅田孝を筆頭に、

 

大高正人、大谷幸夫、菊竹清訓、黒川紀章、ランドスケープはイサムノグチと錚々たる顔ぶれ。

 

一体どんな建築があったのでしょうか。

 

早速紹介していきたいと思います。

 

 

まずはイサムノグチの丸山の周辺に配置されていた、大谷幸夫の「屋根のある遊び場」。

 

 

丸山を中心としてシェルの鉄骨屋根が配され、木陰をつくりながら子供達の遊び場と一体になっています。

 

図面を見るとイサムノグチのアーチ型エントランスを潜り「遊び場」にアクセスする計画になっていたことが分かります。

 

 

 

中央に見えるコンクリートの彫刻が丸山。

 

丸山で遊ぶ子供たちをテントの下で見守る親たち。

 

写真を見るとそんな絵が浮かんできます。

 

 

円弧から見える青空と構造体の織りなすリズムが心地良さそうです。

 

屋根の下は三角形の磁器質タイル貼り。

 

鉄骨柱や敷石などもこどもの格好の遊び場だったのでしょう。

 

現在では丸山とアーチ型エントランスが残るのみで、周りには集会施設や温室が建ち、

 

開園当初とは違った様相を呈しています。

 

 

現在の丸山。

 

開演当時からすると少し寂しいように感じてしまいます。

 

周りを取り囲む集会所(左)と温室(右)はこども施設の名手、仙田満氏の設計。

 

 

 

そして、菊竹清訓の「林間学校」。

 

 

こどもたちの宿泊やグループ学習などを行う施設として建てられた建築群。

 

建物がキャビンと呼ばれていたそうで、25°の崖傾斜をそのまま生かすため、

 

さらに雨水、湿気、風、虫などに対し住空間を確立するために地表から立ち上がっているそうです。

 

菊竹さんといえば、自邸のスカイハウスも地表から立ち上がっています。

 

ちなみにスカイハウスは1958年竣工で林間学校が1967年の竣工なのでスカイハウスが先輩。

 

しかしなんというインパクト…

 

まるで宇宙船が降り立ったかの様な雰囲気があります。

 

周辺とのコントラストが際立っているからでしょうか。

 

 

キャビンの開口は3箇所あり一方は滝や石庭、一方はテラス、もう一方は浴室の森などの方向に開かれて、

 

内部に入ると自然に視線が外部に向かう様に設計されそうです。

 

 

 

全体配置図。

 

フィールドを見下ろすようにキャビンが配されていることが分かります。

 

まるでフィールドを見渡す観客席のよう。

 

菊竹事務所の担当者は後に建築家として活躍する仙田満氏と伊東豊雄氏。

 

布陣が豪華すぎる…

 

 

 

そして最後に黒川紀章の作品。

 

唯一園内に現存する建築(工作物)の「フラワーシェルター(休憩所)」を設計した建築家です。

 

ちなみに黒川紀章といえば存続に揺れる「中銀カプセルタワービル」を設計したことでも知られています。

 

黒川紀章は「休憩所」「アンデルセン記念の家」「セントラルロッジ」「屋外集会所」の4つの建築を設計しました。

 

まずは「セントラルロッジ」。

 

 

こどもたちのためのレクリエーション施設です。

 

宿泊施設が上階にあり、下階はこどもたちが自主的に使う集会室や食堂などがあります。

 

中空に浮いた大屋根がとても印象的。

 

突然森の中に現れたら結構驚きそうですね。

 

2階の屋上は散策路を取り込んだ道の建築として構成されています。

 

 

菊竹さんの林間学校でも感じましたが…

 

こっちも宇宙船かい!!

 

と言いたくなる溢れ出すSF感。

 

時代なのでしょうか、SF的なモチーフが当時流行っていたのか定かではありませんが…

 

当時「こどもの国」ではウルトラマンや仮面ライダーなどの特撮の撮影がよく行われていたそうです。

 

大阪万博のお下がり遊具や乗り物などもあったそうで、園内全体がSFテイスト満載だったんですね。

 

確かに子供だったら楽しそう。

 

 

2階屋上。

 

散策路の道空間でもあり外部でもあり、内部的な中間領域です。

 

シャフトによって持ち上げることで視界が遮断されることがなく見通しの良い広場になっています。

 

 

1階集会室。

 

テラゾー貼りの石段は床座にもなるように計画され、

 

こどもたちの活動を限定することなく抽象的なつくりにしたそうです。

 

 

断面図。

 

こちらは「アンデルセン記念館」。

 

 

こちらもこどものためのレクリエーション施設として設計されました。

 

花畑の上に高床式で建てられスラブはコンクリートの人工地盤の上に計画され上部は木造。

 

「セントラルロッジ」と同じく空間は通り過ぎるための街路のように構想され、

 

その導入部のデッキが花畑から伸び、自然に建築内部に導入されるように計画されています。

 

 

こじんまりとした小建築ですが、印象としては「セントラルロッジ」と同じく屋根の印象が強いでしょうか。

 

 

この建築空間が内部でありながら外部空間として逆転する仕掛けとして、

 

デッキから導入される内部アプローチの上部がトップライトとなっており内部の外部化が試みられています。

 

実際にどこまで外部化を出来ていたかは疑問ですが、個人的にはこの道空間は興味があります。

 

黒川紀章は木造小建築の設計もしていたんですね、知りませんでした。

 

この道空間手法はその後、寒河江市庁舎、日赤本社ロビー、国立民族学博物館へと引き継がれ発展していくのです。

 

 

 

余談ですが、この「セントラルロッジ」と「アンデルセン記念館」は初期の計画案「K邸計画」「農村都市計画」に黒川建築の原型をみることができます。

 

「K邸計画(自邸計画)」は「農村都市計画」の建築単位として構成されたもの。

 

「農村都市計画」は黒川の故郷である愛知県海部郡を題材とした都市計画案で、

 

グリットのアーバンデッキ状に「K邸」と同じくキノコ型の建築が浮かぶ計画として発表されました。

 

伊勢湾台風による被災を想定したそうで地上階は公共共有空間として計画され、

 

空中にペデストリアンデッキ状のネットワークをつくり、情報、エネルギーのネットワークも兼ねられ、

 

住宅やその他の建築とリンクするという壮大な都市計画案だったそうです。

 

計画案で実現はしていませんが、この2案は世界デザイン会議後にMOMAで行われた「ヴィジョナリー・アーキテクチャー展」に招待され、

 

若き黒川紀章が華々しく世界デビューをかざったいわば黒川建築の出発点だったのです。

 

「農村都市計画」

 

「農村都市計画」

 

K邸計画。

 

シャフトで持ち上げられた屋根や空間操作など「セントラルロッジ」との類似点を見て取れます。

 

この計画案をみた川添登がまだ20代だった黒川紀章をメタボリズムグループへ引き込む要因となった作品と言われています。

 

 

話は戻りますが、黒川の初期コンセプトを具現化したのがこの「セントラルロッジ」であり道空間を主題とした「アンデルセン記念館」だったのです。

 

そんな記念すべき建築も他の建築家の建築と同じく老朽化で解体され残念ながら現存していません。

 

 

黒川の内外の関係性に着目したコンセプトはその後様々な建築に反映されていますが、

 

福岡の天神にある「福岡銀行本店」では今でも当時と近い空間体験をすることができます。

 

福岡出張の空き時間はよくここでコーヒを飲んでいますがオススメです。

 

ここでは銀行の敷地の1/3が大屋根の軒下空間で公共空間として街に開放されているのです。

 

憩いの場としてコーヒーを飲んだり読書や談笑したりと、本来銀行の私的空間である大屋根空間と、

 

街が一体となった印象的な光景が展開しています。

 

福岡銀行本店の軒下空間。

 

爽やかな風が抜けていき、なんとも言えない心地よさ。

 

黒川紀章が「こどもの国」で夢想した建築、コンセプトが時代を超えて今も生き続けているのです。

 

「こどもの国」の建築的歴史と現存する黒川建築に思考を巡らせ、

 

彼らが夢見た建築と世界に思いを馳せてみるのでした。

 

iso

 

参考文献 

・新建築社 別冊 新建築 日本現代建築家シリーズ 10 黒川紀章

・鹿島出版 《現代の建築家》黒川紀章

・新建築社 新建築 1967年9月号

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  • flow

    ご相談から設計までの流れ

    view flow
  • contact

    礒建築設計事務所への問い合わせ

    contact